26-06-25
ゲーム部の好きなところ
模造クリスタル先生の傑作「ゲーム部」の好きな点を発表します!
創作内で創作に諦める
この作品の唯一性は「ゲームに救われ続けている人が困難を前に、全くゲームに救われず、時間が解決する」ことでしょう。 それも1~10の終盤まで岡野ゆきなにとってゲームがどれほど重要なのかを丁寧に示してきたにも関わらず、それが諏訪の安否が分からない夜に役に立ちませんでした。



諦めると書きましたが、言い換えると、作品内における創作の閾値を明示しているのです。 「創作に救われる時もあるが、創作に救われない時もある」という書いてみれば当然のことなのですが、この当然は今では貴重な含意だと思う。 漫画は熱い方が良くって、アオイホノオで「漫画、意味ない」と含んでもただの冷笑ですから。

岡野ゆきなが救われた時と救われなかった時の差分は自分だけのことか否かなので「人を心配する時に自己中心的な気晴らしは解決にならない」であり、ゲーム部の面々が尽く依存先に救われなかったのはお互いを思うが故なんですね。逆に自分だけで済んでいた過去はそれぞれ救われていた。
創作の全性とそれが及ばない領域の分岐点を描いた内容です。
日常にちょっと絶望する
終わった後に振り返ると、登場人物全員が運命に抗えずに、ただ日常に回帰していく。作者の匙加減で絶望か否かを分けられる内容だった。 別に諏訪が死んでても良かったし、河川に落ちたのが諏訪のアヒルじゃなくてゆきなのヘアピンでも良かった。
それをすると悪のご都合主義だし、作中の展開が都合のいいものだとも思わない。最初は孤独だった個人らが、依存先が通用しない共同体ができていたことに無自覚なまま、一人だった時に通用した儀式が通用しなくなる。集団が生き物のように再生することに安心するものの、それは自分が制御できたとは思わない。
一人の時には依存先を信じること(もちろん完全ではないと自覚してる)で保っていたが、次のステップとして共同体が非日常から日常に回帰することを信じることも選択肢に増えた。孤独から孤独を少し解消して、それに適用したのだけど、そこにも完全には信じるものは無い。
結局のところ、運命は制御不能で身を任せるしか無いというぬるい絶望と、運命は必ずしも悲観ではないリアルな楽観が内包するエンド
個人的に共感するところが多い作品でした。
26-06-25 | ?26-06-23