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26-06-12

「解決可能なことは自発的に解決可能である」と私は思う。 当然にこれは自己責任論だが、ある条件下で完全に後ろめたさもなく真っ当に肯定できる。 それはどこまで自らを制御してよいか?という問だ。答えは青天井、再現無く自らは自らを支配できるし、してやっていい。 感情無く、机上に書いた実行可能なことを、現実的な活動であれば、現実のレバレッジで執り行う。 押し付けるべき責任と主観的な自己責任は非対称なのだ。

私の対称的な体験が2つある。まず私は小学校の時にいじめを6年受けていて、4年目に主犯を階段から突き落として首を絞めて殺そうとしたことで強制的に解決した。これに至るまでには典型的な負け犬と苦虫を噛みしめる暗黒時代があって、ある種清涼とするほどの一貫した物語があった。ポルノである。

次に、中学の時にそれの余波で不登校をしていた時のことだ。二か月続いたが、私は何の前触れもなく、起きてなんかいける気がして、親や学校に何も予告せずにめちゃくちゃな服装のまま学校に行った。行った後に全然引きつけを起こしたり完全にヤバい奴だったのだが、私にはいじめの体験で手に入れたスキル「吃音突撃コミュニケーション」で事なきを得た(状態が何であれ、意図を完璧に伝えれば勝ちという一方的キチガイコミュニケーション)。その後は普通に行けるようになった。

両者の違いは「主観において私が強制的に神である」という自覚だろう。意思決定に動機は必要じゃないという発見を確かめたところ、物語が何一つ無く人生は変わってしまったのだ。

現実や非現実であっても、物語の後に結果を話す構成が多い。 しかし行動とは、制御可能な人生とは何の理由も無く物語もなくサイコパスのように変えてしまえる。 もしフィクションで救済の物語があるなら、現実では過程をすっ飛ばせる。 我々は欠損しない限り心身ともに動的平衡によって回復します。

「人に思想を押し付けてはいけない」そのとおり。では自分に自己責任を押し付けて何故後ろめたいのか? 自己責任とは無能の判別や男性特有の傾向ではない。復讐などの記憶に対する認識を改める、つまり「物語の排除」という現実の直視だ。 今はタイムラインの原点にいて、時系列の半ばにいるという妄執を取り払う。

自己救済において物語はスキップできる。方法は自らが救われたと思うこと、それを求めて、何かを体験して救済されるなら、今何の理由もなく救われてもいいじゃないか?そうではないというのならお前は個人的な悲劇に周囲を巻き込むのが大好きな極めて自己中心的な性格なんだろう。 「自分の機嫌は自分で取るべき」であるからしてぇ・・・。ジジイは常に機嫌良くないと犯罪なんだよ。死ね。カス。ハゲ。

Image from Gyazo

Claudeくん!?どうした?!!!???

俺の夢は世界征服であり、その第一歩として自らを征服する。 お前も我が陰謀の共犯となるべきだ。

?26-06-13 | 26-06-11